マレーシア留学について〜少しマジメな話3〜
インターナショナル・スクール、ボーディング・スクールの優れた教育スタイル
(一)グローバル教育の目指すもの
■個性・能力に合わせたグローバル教育カリキュラム
日本の教育は一括して同学年の児童・生徒全員を同じ能力と見なし、同じ進度で進めていく一斉指導です。一斉指導は主に能力が「並み」の子どもに合わせて学習を進めていきます。そのため、子ども個々人の能力差についての配慮がなされません。その弊害は能力が低い場合だけでなく、能力が高い場合にも生じます。能力が高い子どもまでも「並み」から外れるために、一斉指導を進めていく上での障害となることがあるからです。このようなことから、ときに優秀な子どもの能力を「並み」に合わせる力が生じて、本来なら正当な評価を得て伸びていくはずの子どもが、萎縮してしまうことがあるのです。日本の従来からの教育では、エリートが育たないことが問題視されているのはこのような作用によるものです。
一方、インターナショナル・スクールは一部一斉指導もありますが、早い段階から個人の能力に応じてクラス分けをします。そして中学・高校生になると選択科目を用いて、それぞれに見合った指導をします。このようなスタイルは子どもを全員同じ能力と見なすのではなく、それぞれの進度で進めていくことができるのです。これが、いわゆる飛び級があるか否かの違いになります。
インターナショナル・スクールのように、子ども個々人の能力に合わせて学習を進めていく環境は、能力が低い子どもをフォローするだけでなく、エリート養成にも繋がります。能力が高いと判断された科目は、上級クラスに参加します。反対に進度が遅いと判断した科目は下級クラスで基礎学習をし、理解するまでしっかりと指導します。そのため、得意科目だけでなく不得意科目も自分のペースで理解を深めることができるのです。
また、進度の早さ、能力の高さなど、優良性を判断された場合は、飛び級が可能です。このようなインターナショナル・スクールの自由なカリキュラムは、子ども個々人の能力を主体的に伸ばしていく理想的なスタイルなのです。
日本の一斉指導では伸ばせないといわれる、子どもの自由な能力を最大限に伸ばすには、インターナショナル・スクールのカリキュラムは最適です。
基礎授業の英語・数学・科学・社会・第二外国語以外の科目を中学・高校生からは、個人で自由に選択します。このような自由度の高いスタイルの履修が、日本の教育では伸ばすことのできない個性を伸ばします。エリートだけでなく一般の子どもも画一的でない確固たる個人を確立するのです。インターナショナル・スクールでは高度な英語を学ぶだけではなく、グローバル社会を牽引する個性と主体性のある個人を育てます。
■参加型の授業スタイルで「考える力」を育てる
日本の授業は、教員が生徒に対して一方的にレクチャーするスタイルが一般的です。それに対して、インターナショナル・スクールでは、ディスカッション、ディベート、プレゼンテーションなど、子どもが能動的に考え、参加するスタイルを採用しています。
従来から日本人が自分の意見を持てない、自分でものを考えられないといわれる要因は、このような授業スタイルの違いにもあります。また、このようなトップ・ダウン型の文化が象徴する日本人の協調・調和を重んじる精神は、海外の人たちには、時として
排他的な印象を与えます。その結果、身についてしまった日本人の保守的な言動は、グローバル社会では有能な人材とはみなされ難いのです。
また、インターナショナル・スクールと一般の日本の学校の違いは、このような授業スタイルだけではありません。グローバル教育で用いられるカリキュラムで掲げる理念も、日本の教育とは一線を画しています。「自ら考える」あらゆるカリキュラムにはこの言葉が記されています。グローバル教育では、提示された問題を積極的な姿勢で考察し、解決方法を模索し、提案する、このような思考するためのロール・プレイを学問の中枢に据えています。しかし、日本の学校ではこのように、思考するためのトレーニングを指導できる教員は存在しません。なぜなら、日本では教員たちもその上からのトップ・ダウンの指示に従って動いているからです。
一方で、あらゆることに自由度の高いインターナショナル・スクールでは、カリキュラムやテキストの選定においても、多くの場合、教員に決定権が与えられています。このようなシステムの違いが教員の意識や、能力の違いを生じさせるのです。
また、インターナショナル・スクールと日本の学校の違いは、テストの出題方法にも顕著に表れます。一問一答の日本のテストに対して、インターナショナル・スクールのテストは子どもたち各人に論述を求めます。これらのテストが物語るものは、目の前の問題を「自ら考える」必要性だけではありません。論述式のテストには明確な一個の正解はなく、学んだ教科のどの部分が必要で、どのような解釈が妥当か、についても同様のことが伺えます。そしてテストを終えた子どもたちの心に残るものは、「自ら考える」ことこそが学問であるという揺るぎない事実なのです。
日本の教育では何が重要でどのような解釈をすべきかを教え、一個の正解を正確に覚えることを求めます。しかし、グローバル教育は、目の前の問題に対して自分は何を思い、どんなアプローチをし、それについてどのような価値を見出したかを重視するのです。
高度に思考する経験を積むことは、学問への興味と理解、人生を能動的にドライブする意欲にも繋がります。眼前に広がる世界は、完成されたものではありません。自らの手でいい方向に変化させることができる可能性に、子どもの頃に気づくことができれば、自らの力で人生を切り開く強い精神をも育みます。
このように、学問を通して問題解決能力を備えた自立した自己を育てることをグローバル教育は目指しているのです。
■グローバル教育は最先端の平和教育
マレーシアには、アジア、中東、アフリカを含む世界五〇カ国の国と地域から留学生が集います。これらの留学生は、それぞれ異なる言語・文化・宗教・民族性を内包しています。従来の文明社会では、こられは時に対立を生み、紛争を招いてきました。しかし、このようなミクロの視点で対立していては、これからのグローバル社会が目指す「共生」は実現しません。
マレーシアをはじめとする世界のインターナショナル・スクール、ボーディング・スクールが教授する最先端のグローバル教育では、異なる言語・文化・宗教・民族性をマクロの視点で捉えることを課題にしています。世界をこのような視点で捉えることで、深刻な対立を生む差異ではなく、社会を彩る豊かさとする視点を発見し、「共生」を実現する可能性を提示しています。
そして、グローバル教育を教授する多くのインターナショナル・スクールが掲げる理念には、相互理解とともに「尊敬」という言葉が光っています。それを実現する具体的な方法として、他人に侵入しないことを、子どもたちに指導しています。相互理解や尊敬を示す根本にあるものは、個々人の自立です。それが結果的に過干渉から生じる侵入などの問題をクリアし、それぞれの領域を守ることになるのです。
そして、高度な言語理解、言語力がそれらを支えている事実も見落としてはなりません。グローバル教育で特に重きを置く科目には、英文学をはじめとした世界文学があります。文学が教えることは、単なる言語理解ではありません。文脈を正しく読み解き、そこから浮かび上がる精神や信条に触れる能力と、文化・芸術を理解する英知を伴います。
なぜ文学なのか、それは、文学と向き合うことには、自身と他者との精神の出会いを疑似体験させ、侵入せず理解・尊重するスタンスを養うからです。読者の立場から、自身とは異なる思想を持つ作者を認める、それが尊重・尊敬の経験として蓄積され、身についていくのです。
更に、グローバル教育が最も大切にする「自ら考える力」を支えるのは、これらの言語理解、正しい文脈の理解です。思考力を支えるのは言語です。それを駆使する人が、他人に侵入するような言語の使い方をしていては、グローバル教育が目指す社会の平和は実現しません。そして、世界のあらゆる決めごとは、すべて言語を使って行われます。論旨の通った正しい文脈を見極める力は、偏った文書の示す世界の崩壊を未然に防ぐことができるのです。リーダー育成も目指すグローバル教育は、このような様々なアプローチをしています。次世代のグローバル・リーダーになる子どもたちが担う未来の世界の、平和への糸口を探す力を養います。
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